story
石徹白に残っていた手績み、手織り、藍染のたつけを復活させてみたい、という夢を抱きながら、今日も石徹白洋品店は石徹白でつくった服を並べて、営業中です。
初めての石徹白からお店を開くまで。
2007年、私は初めて、石徹白を訪れました。ぐねぐね曲がった山道の先のその先に、本当に人が住んでいるんだろうか?半信半疑でたどり着いたところは、まさに「天空の里」。ぽっかりと開けた広い土地に広い青の空。穏やかに雄大に広がる地域だからか、ここに住む人もとってもおおらかで器が大きく、笑いの絶えない人々でした。石徹白に通うこと、4年。今の母屋にご縁をいただき、2011年秋に、私はようやく移住しました。そして、2012年5月、石徹白洋品店をオープンしました。
愛する「たつけ」との出会い。
衣食住。暮らしに欠かせない三大要素の一つである「衣」をこの手に取り戻すこと。石徹白の自然の恵みを頂いて、感謝の気持ちを持ちながらものづくりをすること。そして、石徹白の人々とともに楽しくものを生み出すこと。私がめざすことです。それに加えて、もっと石徹白らしいお店にしたいと考えていました。そんな時、学生時代からお世話になっている恩師が石徹白に来てくれました。カンボジア・シェムリアップで、一度は内戦で途絶えた絹織物を現地の人々とともに復活させてきた森本喜久男さんです。
彼は、地雷が埋まっているような荒地をカンボジアの人々とともに開拓し、木を植え、森を育て、蚕を飼い、糸を紡ぎ、布を織り上げることを通じて、一つの織物村を作り上げ、今では100人近くの人々が幸せに暮らす村が築かれました。森本さんは、石徹白のある家に残っていた一本の古いズボンを手に取り、その形をまじまじと見つめていました。それは私も知っていた「たつけ」でした。
たつけは、石徹白の農作業着として、昔着用されていました。今は、石徹白の盆踊りの舞台発表衣装として、残っています。森本さんは、そのズボンを手に言いました。「君は、これを作るといい。」
石徹白の人にとってあまりにも当たり前にある「たつけ」。私は森本さんに言われてから、初めてじっくりと広げて見てみました。
すると・・・確かにすごい。洋服のズボンでは考えられない形、縫い方・・・私はすぐに、石徹白の2人のおばあちゃんにつくり方を教えてもらいました。当時70代後半の小枝子さんと、80代後半のりさ子さんでした。彼女らは、快く教えてくださると同時に、たつけを履いていた時代の思い出話もたくさんしてくださり、私のたつけへの愛着はより深いものとなりました。
さて、たつけの作り方については、洋裁を学んだ私は、度肝を抜かれる思いでした。裁断方法、縫い方が想像できない。全て直線絶ちにもかかわらず、動きやすく、少ない生地で出来上がる。まさに和服の集大成。
石徹白洋品店でやりたいこと。
私はたつけを何本も作り、今の時代に履きやすいサイズ展開、デザインアレンジ、生地探しを繰り返し、今に至ります。
いつか、石徹白に残っていた手績み、手織り、藍染のたつけを復活させてみたい、という夢を抱きつつ、一人でも多くの方に「たつけ」の着心地の良さを味わっていただきたいと願っています。